芸能照月:01
カツカツカツカツカツカツカツ。
綺麗に整えられた細い指先が間断なく机を叩く音が響く。
もしかしなくても、月の機嫌は現在地の底を這いずっていた。
軽く施されただけのメイクがもたらす、いつもなら気にしないような微かな不快感さえもが気に障ってたまらない。
本人も無自覚のうちに整った柳眉は寄せられ、紅も引いていないのに赤く濡れた唇はきゅっと噛み締められていた。
「………」
今をときめく人気歌手、KIRAにふさわしく、十分な広さの控え室には雑誌や弁当なども備えてあったが、今はそれらに触る気が微塵もおきない。
それもこれも全てはヤツのせいだ……メイク台の前におかれたパイプ椅子にどっかりと座り込んで、月はその面影を見るように正面の鏡をじっと睨んだ。
その知らせは、突然だった。
先に撮影の入っていたレギュラー番組の収録の合間にマネージャーの松田から聞かされて、人前であるにも関わらず思わず憮然とした顔をしてしまった。
五歳からこの世界に入って十六年、プロとしてあるまじき失態である。
しかし、今日の生出演の歌番組でヤツの出演が飛び入りシークレットゲストとして急遽決まったというのだ。
これで平気な顔をしていられようか。
現在人気絶頂にある若手俳優、魅上 照。
昨年、十八歳の若さで大作映画の主役を務め、数々の著名な主演男優賞を総ナメ、センセーショナルなデビューを果たした。
本業は歌手ではあるが、もともと子役としてデビューした月は、もちろん俳優の仕事も多々受けるし、演技それ自体にもとても興味を持っている。
ゆえに、魅上のことは当然知っていた………正直に言えば、微かな憧れさえ感じていた、のに。
とにかく、魅上はその身に纏う空気からして他と一線を画していた。
彼の名を知らしめた件の映画を初めて見た時、月は背筋にゾクゾクと強烈な痺れが走るのを感じたものだ。
恋人の死をきっかけに徐々に精神崩壊を起こし、無意識のまま次々と人をその手に掛けてゆく狂った男。
画面の中の、何処か虚ろで、それでいて熱に浮かされたような、次第に焦点を失いはじめる黒瞳から目を逸らすことが出来なかった。
まるでひたひたと迫り来る破滅の足音が聞こえてくるようで、壊れたように高らかに哄笑しながら自らの喉を掻き切るラストシーンでは、うすら寒くなるような戦慄さえ感じた。
だから、所謂『顔だけ』俳優が増えている昨今、まさか年下でこれほどの演技ができる人物がいるとはつゆにも思わなかった月は、純粋に魅上の才能に感嘆したのだ。
大量のオファーを蹴り、滅多に一般番組に露出しない魅上の出演が、映画のPRのため、月がメインパーソナリティを務めるトーク番組に決まったとき、実は心密かに喜んでもいた。
何も知らずに心踊らせていた当時の自分のおめでたさを呪いたい……初対面を思い出して、月の眉間に更に深々と皺が刻まれる。
話題になっているからといってそれを鼻に掛けることもなく、生真面目で誠実で、誰に対しても丁寧な応対をすると聞いて、さらに好ましく感じていたのに。
初対面の挨拶の際、久々に緊張と期待を感じながら、自分の出来得るかぎりの最高の笑顔で差し出した手は、終に取られることはなかった。
それだけならまだ、人との接触が苦手なだけと片付けられるが、自己紹介を返すどころか、月の顔を見るなりふい、と顔を背けたのだから、これはもう馬鹿にされているとしか思えない。
意外にも芸能界は上下関係に厳しく、年に関係なく芸歴の長い方に敬意を払わなくてはならない場所だ。
この場合、魅上の取った態度は、年齢も芸歴も上である月に対してはあるまじきものである。
しかも、月以外の人間にはいたって普通の、評判通りの態度をとっているのだ。
そっちがその態度なら、とカメラが回る所以外では無視を貫けば、今度は射殺さんばかりの強く鋭い、それでいて全身にねっとりと絡み付くような執拗な視線が月の横顔を、背中を、しなやかな体の線を舐めてゆく。
どういうわけかは分からないが、とりあえず、魅上が自分を嫌っていることだけは確かだろう。
そんな相手に当然よい感情を持てるはずもなく、月が先に抱いていたイメージは木っ端微塵に砕かれた。
自然、初めに期待していた分、なおさら反動で月の魅上に対する印象は最悪なものになる。
自分の仕事に誇りを持っている分、魅上の私情を交えた態度にはさらに嫌悪が募った。
その一回で終われば幸いだったのだが、何故か頻繁に出演番組がバッティングし(まるで月のスケジュールに合わせたようであった。…もっとも、魅上は自分のことを嫌っているようだから、それはありえないだろうが)、出会うたびに嫌悪が募って今に到るというわけなのである。
最近では顔を合わせないよう慎重にスケジュールを組んでいたというのに、まさか飛び入り出演、それも歌番組に出演が決まるとは……俳優が歌番組に顔を出すなと苛立たしげに舌打ちしてしまうのも致し方ないというものだ。
「はぁ…」
ちらりと壁にかかった時計に目をやる。時間だ。
必要であればどんなに嫌いな相手でも、親友のようにふるまってみせる。
それが仕事なのだから。
月は憂欝な溜め息を一つ吐き出すと、静かに控え室を後にした。
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2006.08.03