失うくらいなら、:02



お題配布@BLUE TEARS









「ライさン…おきテくだサイ、ライさン…」

目覚めは唐突だった。
気遣うような声に意識を揺さぶられて、ライはぱちぱちと瞬きを繰り返した。
あたりを見渡せば、昼間ギアンに凌辱されていたときには窓から明るい陽光が注いでいたというのに、既にそれは夕暮れどきのオレンジへとすり替えられてしまっている。
聞き覚えのある優しい声と、カタコトの口調に、ライは驚きに目を見開いて声の主を凝視した。

「カ、サス…?」

ここに閉じ込められて以来の、ギアン以外との初めての会話に声が震える。

「そうデス、夕食、持っテきましタ。こんなコトになってしまっテ、本当にごめんなサイ…」

そう呟くと、カサスは痛ましげに眉を潜めた。
ふさふさした金髪が、夕日を照り返して赤く染まっている。

「そんな、カサスのせいじゃないだろ…気にすんなよ、な?オレは平気だから」

きっと今の自分は、以前と比べて見る影もなく痩せ細ってしまっているのだろう。
さりげなくシャツを引き寄せて痕だらけの躯を隠し、ライは心配をかけないよう無理矢理微笑んでみせた。
どうやら眠っていた間に唾液や精液で汚れきった躯は洗われ、ぐちゃぐちゃだったシーツも取り替えられたようだ。
それを行ったのはおそらく、凌辱の限りを尽くした張本人なのだろう。
感謝の念は全く浮かばなかった。

「こんなニ痩せテしまっテ…酷イ…」

「だーかーらーっ!そんな心配すんなって、大丈夫だからさ。
それよりほら、オレ腹減っちゃった。カサスも突っ立ってないでそこ座れよ」

しゅん、と耳と尻尾まで垂れる様子に、今度こそ本心からの笑みが零れる。
本当は食欲などなかったが、それは今に始まったことではない。
いつもならギアンの手で、全てを食べ終えるまで無理矢理食物を口許に運ばれるのだ。尤も、終わった後はいつも胃の中のものを全て吐き出していたのだけれど。
そんな憂鬱な食事に比べれば、カサスとの和やかな夕食は大歓迎である。
にこやかに広い寝台の端を指すライに、カサスはすっかり華奢になってしまった細い手首をじっと見つめた。
しばらくそうして迷っていたが、意を決したように寝台へ腰を降ろす。

「今日ハ、ギアン様が戻らレないのデ…本当ハ別の兵士ノ担当でしたガ、脅しテかわってもらっちゃいましタ」

「ははっ、ほんとかよ?」

「本当ですヨ」

元気づけるようにおどけて言うさまが嬉しくて。
ライは久方ぶりに無邪気な笑い声をあげた。
優しい空気に包まれて、なんだか懐かしさに目頭が熱くなる。
脇におかれたトレイの中を覗きこむと、美味しそうな匂いが鼻先を擽った。
消化によさそうなかゆが熱い湯気を立て、青々とした新鮮なサラダと果物の盛り合わせが、冷たい水とともに添えられている。
真っ赤に熟れた林檎を剥くためだろうか、鋭く磨がれた果物ナイフを目で確認して、ライは上機嫌でカサスに問い掛けた。

「うわっすっごい旨そうだなぁ…もしかしてこれ全部、カサスが用意してくれたの?」

ギアンが用意するものはいつも、豪華なだけで何の温かみも感じなかった。
これはそれとは全く違う。
質素ながらも、そこかしこに気遣いが溢れているのが一見して分かった。

「ハイ、消化にイイものナラと思っテ…野菜や果物ハ子供タチが一緒に採っテくれましタ。
ライさンほど上手く作れないカラ、おいしクないかモしれませんガ…」

そう言って、カサスは照れたように顔を赤くして頭をかいてみせる。

「そんなことない!とても、おいしい、よ…」

冗談抜きでカサスの手作りのかゆは美味しかった。
ふんわりと絡んだ卵が舌の上でとろけ、優しい味に冷えたライの心までがじんわりと暖められる。
先程から堪えていた涙が、ついにしろい頬を伝ってぽたりと一つ、シーツの上に染みを作った。

「ライさン‥!?どうしたデスか?ヤッパリまずかったデス…?」

「ううん、すっげー美味いよ。ただ…あったかくて…さ」

そう言って泣き笑いを浮かべるライを見て、カサスは黙ってライの頭を撫でた。
大きな手の優しい感触に更に涙が溢れるが、気付かないふりで撫で続けてくれて、心の中で感謝する。
やはり男として生まれてきたのだから、面と向かって泣き顔を見られるのは恥ずかしかった。
しばらく、ライがスプーンを動かすカチャカチャという音だけが、優しい沈黙に響きわたる。
時間をかけてようやく半分を食べ終えると、ライは申し訳なさそうにスプーンをトレイへ置いた。

「ありがとう、すごくおいしかった…。
でも、ゴメン、これ以上食べられそうにないや…」

「ソンナ‥ッ!食べテくれたダケで、スゴク嬉しいデス!
全然、気にしないデくださイ!」

ぶんぶんと首を振られて、ホッと息を吐く。
冷たい水を一息に飲み干すと、ライはずっと心の中にあった問いを唇に乗せた。

「それで、いきなりだけど…エニシアもオレのことを知ってるのか?」

カサスはピンと立っていた耳を伏せると、沈んだ様子で答えを返す。

「ひめさマは…知っていまス。
ギアン様にモ、ライさンを解放するよう訴えましタ…もう、何度モ。
将軍や教授も反対しましタ。もちろん、ボクもデス。
でモ、全然聞き入れテもらえなくテ…。」

「そっか…」

「力不足デ、本当にゴメンナサイ……」

カサスが深く俯くのを確認して、ライはそっと果物ナイフを毛布の中に潜り込ませた。
冷たい刃の感触を指先でじっくり辿れば、ひとりでに唇が吊り上がってしまう。
そんなライの様子にも気付かず、カサスは懸命に言い募った。

「でモ…っ!ボクが、絶対にライさンを助け出しますかラ…!
元のトコロには帰しテあげられナイかもしれないケド…ひめさマに止められてモ、必ズ」

「ありがとう、カサス。その気持ちだけで、オレには十分だよ…」

「ライさン…」

「もう、いいから。行ってくれ…これ以上一緒にいると、別れが辛くなる。
今日は、来てくれてほんとにありがとな」

「ハイ…わかりましタ…」

長身を小さく丸め、トレイを持ってすごすごと歩きだす後ろ姿に罪悪感が募る。
けれど、ギアンがいつ帰るとも限らない。
自分のせいでカサスに余計な危害を加えられたくはなかった。
外界とこの部屋とを繋ぐ、唯一の扉が重い音を立てて閉じられる。

「さよなら、カサス…オレなんかのことをこんなに心配してくれて、本当にありがとう…」

ライはカサスの目を盗んで手に入れた果物ナイフの柄を固く握り込むと、再び柔らかな睡魔へとその身を委ねた。







結局、ギアンが城へ戻ったのはカサスの言った通り、翌朝のことだった。
うとうとと何度か浅いまどろみを繰り返し、まんじりとした夜を過ごしたライは、規則正しく響く足音に胸を高鳴らせる。
緊張に掌が汗ばみ、握り締めた果物ナイフを滑らないようにきつく持ち直した。
いつものように鍵が開けられ、重い扉が悲鳴のような軋んだ音を立てて開けられる。
その向こうに眼鏡越しの紅い邪眼を認めると、ライは優しく微笑んでみせた。

「おはよう、ギアン」

そんなことは初めてで、ギアンの切れ長の瞳が驚きに見張られる。
けれどもライの手の動きを見て取って、次の瞬間長身が凍り付いたように動きを止めた。
ゆっくりと果物ナイフを自らの喉元に突き付けて、ライがにっこりと笑っていた。

「な、にを…」

「オレはな、もうお前の好きなように扱われんのには、いい加減うんざりしてんだよ。
お前の遊びに付き合ってやるのも、ここまでだ。
…さようなら、ギアン」

愕然とライを見つめるギアンを尻目に、一息に言い募る。
やっと解放されるという歓喜と、死への恐怖に、胸がドキドキと早鐘を打っていた。
大きく深呼吸をして、ぎゅっと目をつぶる。
会えなくなって久しい仲間たちの顔が次々と脳裏に浮かんだが、強く振り払って心を無にした。
息を詰めて、一気に腕を振り下ろす!


――――だが、待ち望んだ鋭い刃が細い喉を食い破ることはなく。
絶望に呆然と見開かれた視線の先では、幽角獣の角を持つ本来の姿を現したギアンが荒い息をついて、そこにいた。
爪が食い込むほどきつく手を握り込まれ、千載一遇のチャンスを逃したことを思い知らされる。
自分の弱った腕が振り下ろされるよりも、変化を解いたギアンの動きの方が速かったのだ。
冷静に考えればすぐ分かることなのに、見落としていた自分が涙がでるほど苛立たしい。
ようやく乱れた息を整えると、ギアンは唇を笑みの形に歪めてみせた。
けれど、紅い瞳は全く笑っていなくて。
ライの背骨を、恐怖がじっとりと飲み込んでゆく。
やがて何を思ったのか、嫌がるライを余所に、ギアンは力づくでナイフの方向を自分の角へ向けさせた。
そしてライの手の上からナイフを握ったまま、じりじりとそれを近づけてゆく。

「…ゃ…め……」

「どうして?幽角獣の角を傷つけられれば、いくら私でもタダではすまない…死も、免れないだろう。
君は、ずっとそれを望んでいたんじゃないのか?」

「ひっ…ゃ、いや…だ!いやだいやだいやだいやだ」

壊れたように繰り返すが、聴き入れられるはずがなかった。
渾身の抵抗も軽く一蹴されてしまう。
ガリ、と角を削る鈍い感触が腕を伝わって、躯ががくがくと震えた。

「……ッ……う……ぐ、…アアアッ…」

ギアンの薄い唇を割って、食いしばった歯の隙間から低い慟哭が放たれる。
荒い呼吸に胸はせわしなく上下し、端正な顔は血の気を失って蒼白になっていた。

「やあぁっ…」

ぎち、と角に入った亀裂が広げられて、ライの唇からは悲鳴がほとばしる。
これまでの戦いでも、敵をのしたことはあっても、その命を奪ったことなど、一度もない。
初めて手を下す恐怖に、ライはがちがちと歯が鳴るのを止められなかった。
そんなライの内心を読んだのか、額に脂汗を滲ませながら、ギアンがくつくつと嗤う。

「甘い君のことだから、初めて殺した私の存在を忘れることはないだろう…私は君の魂の中核に刻み付けられ、君とともに生きるんだ。
どうだ、素晴らしいとは思わないか…?」

「やだ…それ以上言うな‥っ!」

「私の全ては君だけで、君の全ては私だけだ。
私はね、ライ。君を失うくらいなら、」



―――――いっそ、自分の命を絶ってしまったって構わないんだよ…?



「やめろおおおおおおおおおおおおお‥!!」

長い監禁生活に既に限界まで追い込まれてしまっていた脆い精神が、人の命を奪う重みに耐え切れるはずもなく。
最後、耳元に睦言を落とすように甘く囁かれて、ライは絶叫した。



















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2007.01.14